森に行くと、元気になる。
落ち込むことがあって、ああだこうだ悩んでいても、森に入るとすっと心が軽くなる。「森に入る」と書いたが、正確にいえば、森の外側から森の内部に入った瞬間、3本以上の木に囲まれた瞬間、はっと自分の心が動くのを感じる。自分がそれまで悩んでいたことが、なんてちっぽけなことだったんだろうと思えてくる。同じ場所に何十年も立っている木たちに囲まれた瞬間、その荘厳さに圧倒され、自分が些末なことにこだわっていたことに気づかされる。厳しい環境であればあるほどそこに長い間存在する木々たちの姿に感動する。真冬に垂れ下がった濃い緑の葉にたっぷり雪を乗せたまま凛と立っているトドマツたちを目の前にしたら、人間関係に起因するもやもやした気持ちもどこかに消え去ってしまう。同じ場所に何十年もの長いあいだ立っている樹木という生き物に私は惹かれてきた。
時代はさかのぼるが、大学院生のころ東アフリカのタンザニアで農村社会の調査をしていた。頻繁に訪れた地域は、タンザニアのなかでも人口圧が高まり、もともと広がっていた自然林がほとんどの伐り開かれて農地や居住地になってしまっている地帯であり、木がとても貴重で植林も必要に応じておこなわれていたが、まとまった森や林は近くには残されていなかった。一方で、トウモロコシ畑やコーヒー畑の中にぽつりぽつりと木が立っていることがあった。コーヒーは強い日射を好まず日陰が必要な作物なので木がのこされるのがわかるが、トウモロコシは日射があればあるほどよく育つので畑の中の木は邪魔でしかない。トウモロコシ畑のなかに木が生えている不思議な景観のわけを探った。畑に生えている木の直径や本数の計測をおこなって森に生えている木の構成と比べたり、木がそこにある理由を畑の持ち主にたずねたりした。一番多く残されていたのはイブラという木で、果実が主食代わりになる木で、祖霊とのつながりにおいても大事な木であった。私のメインの調査は、イネ科の草本に覆われた季節湿地の土地利用を調べることだったが、樹木を対象にした調査をできることに非常に喜びを感じたのを覚えている。
そもそもタンザニアで調査地を選ぶにあたっていくつか候補地があったなかで、森が広がる地域は他の院生が担当することになり、私は人口が多くて森林がなくなったエリアにあたったのであった。本当は森を対象にした調査研究をしたかったという気持ちがそのときからあった。
木がまばらな場所よりも、木がたくさん生えている場所のほうが魅力的だと感じる。なぜなのだろう。森に対して特別な場所という感覚はある。森の外の空間とは別の空気感が森にはあると感じる。森で仕事をしていると私は上機嫌なのであるが、何か森で森でないかを無意識的に感じているようだ。次のようなことがあった。
沼田町であるとき森にほど近い水田の畔に生えているシラカバや柳を伐ってほしいと農家さんから依頼を受けた。作物の生育時に日陰を作って邪魔になるほど大きくなってしまったからだという。直径20センチから40センチほどの木が多かったと思う。夫と二人で畔の端っこから順番に伐っていった。近くに森があって畦にもそれなりの密度で木が生えていたので、森での伐採と同じ感覚で木を伐っていたが、木を伐り進めて、残りの木も半分以下になったあとき、自分たちがしている作業がなんだかつまらない仕事に思えてきた。おそらく、木をどんどん伐っていって、もはや森でなくなってしまったと私が無意識的に判断したのだろうと思う。
森をどんな場所だと感じているのかといえば、神秘的だという感覚、自由な場所、外の世界とは違う場所だと感覚がある。それは山が昔から逃げ込む場所だったり、里とは違う生き方をする人が住む世界だったこととも関係するかもしれない。そいういうことについてこれからきちんと考えてみたいと思っている。
